本田 清先生との対談

質問者 附属中学校では何期生から何期生まで教えられたのですか?

本田先生 着任したときの3年生が34期生で、教えたのは34期生からで担任をしたのは35期生からです。そして、最後に教えたのは60期です。

質問者 国大の地理を専攻されたということですが、当時光陵高校の伊藤理先生の影響はありましたか?

本田先生 はい。伊藤理先生は大変すばらしい先生でして、非常に影響を受けまして地理学をやりたいというのは伊藤先生の影響が強かったと思います。

質問者 伊藤理先生は野村正七先生の教え子でしたでしたよね?

本田先生 はい。 教科書を一緒に作っていたことがあるとは聞いていました。野村先生は国大の地理科に行きましたら、教授でいらっしゃいまして非常にユニークなわかりやすい授業でしたが、地図学は非常に難しかったですけれど・・・。

質問者 附属の校長をされた後ですか?

本田先生 後です。私が大学4年の時に学部長になられて、その後学長になられました。

質問者 何期の時に本田先生は弘明寺校舎に移っていらしたのですか?

本田先生 私が着任した年の夏に引越し(学校の移転)をしたので・・・着任したときには立野に着任しました。ですから、今まで教師団の中では最後の行き残りです。そして、若松先生が当時先輩としていらっしゃった訳です。なので、若松先生と私が立野を知っている最後だと思います。

質問者 この26年間の中で印象に残った思い出があればお聞かせください。

本田先生 教師をしていて一番楽しいというのは、やはり学級担任なのです。学級担任時代というのは本当に楽しかったという思い出がありますね。35期の1C、2C、3C・38期の2B、3B・40期の2C、3C・44期の1A、2A・ですから附属中で9回担任をして、9つは私が担任をした教室で2教室がダブっていて、2教室行っていない教室が有るんですけども、副担任としてはそこも行きましたから「弘明寺校舎の9教室は全部私のものだ」という気持ちがあります。
担任というのは生徒に一番近いところで接することができるので、楽しいことも辛いこともいろいろありましたが、教師をやっていて一番楽しかったのは担任でしたね。教師になった自分がなにをやりたかったかというと、学級担任をやりたかった、ということだと思います。44期の1A、2Aと持って3年から学年主任になって、その後学年主任、研究主任、教務主任とやって、また55期から学年主任に戻りました。その55期の3年間が私の人生のなかで一番充実していた3年間だったかなと思います。
その55期は本当に気持ちのいい生徒たちが集まっていまして、55期を卒業させたときに私は「中学教師をやりきった、もう思い残すことないだけできた」という気持ちがして、これ以上中学教師を続けていく上ではもっと自分を高めなければいけないと思い、大学院に行きたいと思っていました。
その時に、当時の中村校長から「夜間大学院というのがあるぞ」と教えていただきまして、中村校長は翌年の試験を考えていたようでしたが出願締め切りまでまだ5日あったので必死に研究計画書を書いて、すべりこみました。その後、夜間2年で修士を取り、博士後期にうまくもぐりこんで3年の博士後期を短縮2年で修業して、昨日国会図書館に製本した博士論文を提出して、あとは26日に学位をもらうというところまでこぎつけました。特段優秀だった学年ではないと思うのですけども、とにかく問題を起こさずに3年間を過ごしてくれた学年主任としてはとっても楽ができた学年だったと思います。

質問者 卒業生にお話していただけることはありますか?

本田先生 附属中の生徒たちっていうのは、在学時代はもちろん頑張りますけども卒業後にいろいろな世界で活躍するっていうのが、「いや、本当にすごいな」っていうのがあって、教師っていうのは自分が関わっている時間が勝負なのですが、自分の手から離れていった後どうのびていってくれるのかなというのがすごく楽しみな部分です。
自分が関わった生徒が卒業後すごく活躍しているというのを聞くのが一番嬉しいですね。附属に来てから34年間の今までに20人結婚式でスピーチをしましたけども、中学時代にどんな子でどんな活躍をしたかというのを集まっている人にお話するのが私の楽しみの一つです。

質問者 これこそ附属中生だ、と感じるのはどんなところですか?

本田先生 物事をあきらめずにとことん取り組もうとする姿勢は、附属の生徒は素晴らしいと感じますね。

質問者 附属中学生に期待されるリーダーシップに関して、お聞かせください。

本田先生 附属の生徒は中学校にいる3年間に行事も多いですし、それぞれ個人のリーダーシップを発揮できる場所が多い学校だなと思うのですね。その中学校のときに経験してきたものを高校以上の新たな世界で発揮してくれている先輩はとてもたくさんいます。
中学校時代にできなかった子たちが高校に行ってリーダーシップをとってくれているというのは非常によく聞く話なので、そのリーダーシップを取れる素地は中学校時代に充分養われているのかなと多々思います。私は、初任は5年間公立の学校にいましてそのときに接した生徒たちに比べて、附属の生徒はリーダーシップのとれる要素を非常に高いと思います。

質問者 1学年3クラス130人程度の規模で教える先生にとってのメリットは何ですか?

本田先生 1学年3クラスですと、全部その学年については自分が教えるということになるので、それはその学年全体を見渡す上ではとってもいいことですね。
今、高校は1学年6クラスありまして、帰国クラスがあるので必ず複数でもたなければいけないことになっていて、ひとりで学年全部を見ることができないので社会科の場合は最低三科目を教えることになっています。
そういうことでは附属中は学年まとめて「この期は私」ということができたので、すごくやりやすかったです。

質問者 副担任制はありましたか?

本田先生 基本的にはクラスの倍教師がいるので、5人の場合もあるのですが大体6人で学年を組んでいますから、1つのクラスに担任1人、副担任1人という体制ができています。

質問者 総代だったとお聞きしましたが?

本田先生 総代は岩間副校長が「新採用教諭の総代で辞令をもらった」とおっしゃっていたので、「私も総代だったよ」と言ったら、「なぁんだ本田さんと一緒か」となって。横浜市の新採用教員ですね。26日に博士の学位を戴くのですけども、博士論文の核にしたところが「環境プロジェクト」なんですね。
附属でやったTOFY「環境プロジェクト」を核にして論文を構築しました。「環境プロジェクト」に至るまでは、「防災プロジェクト」があり「フードプロジェクト」があったのですが、私が特に環境に力を入れてきた16年間を中心にまとめて、実践から理論を構築して、その理論から論文を書きました。

質問者 何期生からそういうのをはじめたのですか?

本田先生 総合的な学習がはじまったのは52期ですが、社会科の研究を始めたのは「ケータイプロジェクト」です。「環境プロジェクト」が今年卒業した59期の代です。6年間やっています。
中学生であれだけ自分から社会との接触を持って勉強できるというのは、本当にすごいことだと思います。私の修士のときの研究発表が「社会参加型教育」で、社会に積極的にアプローチしていく教育に注目して、博士のときはそのなかの環境にしぼって研究をしました。核にすえた「環境プロジェクト」は「フード」「防災」の流れを踏まえて環境にアプローチしました。附属のTOFYでやっていたことは、博士論文になる価値になる勉強をしていたということです。卒業生に対していろいろアンケート調査を行ったのですが、激励のメッセージと共にそれが送り返されてきて、めげそうなときはそれを読んで頑張りました。

本田先生 勉強ができることはレベルが高いかというと必ずしもそうではないと思います。ペーパーで図れる学力が高くなくても、社会の中で役に立つ仕事ができる人が非常に多くて、附属の場合はもちろん優秀な子もいますけど、中学時代の学力がそんなに良くない子でも、社会の中で活躍している子はすごく多いのですごく楽しみにしています。失敗体験は大事だと思うのです。
入りたい高校に落ちて、行きたくない学校にいったということがあると思うのですが、行きたい学校に行った子と行きたくない高校にいって頑張った子のどっちが幸せか考えると、もちろん両方あるとは思うのですが、行った先で頑張った人が幸せだと思うのですね。
自分の目標を貫くことが大事だと思います。すべてうまくいけばいいってだけじゃなくて、どうすればうまくいくのかということを考えてできればいいのかなと思います。
30代で、大学院を受けたことがあって、語学試験で落ちてしまって大いなる挫折経験をしたのですが、いつか取り返してやろうと思っていました。
55期を卒業させるときに、中村校長から大学院のお話を聞いて、この経験をいかしてやろうと思い、4年博士課程までいきました。
もし一回目で大学院に行っていたら、修士課程まで行ったとはおもいますが、博士課程は取らなかったと思います。落ちたから今の私があると思います。成功すればそれに越したことはないと思いますが、成功して慢心してしまえばそこまでだとおもいますが、失敗して「なにくそ」と思って頑張ればその後の自分を輝かせると私は思っています。