石橋 文雄 先生の寄稿

石橋 文雄

 教育の仕事を通算46年勤め、その間で最も充実しやりがいのあった職場は国大附属横浜中の10年でした。32歳から42歳、気力・体力も十分でした。15期生、18期生、21期生、24期生などの卒業式を思い出します。
「蛍の光」「仰げば尊し」で涙しました。この歌を歌わない学校が近頃多いんですよね。

 附属中では理科第1分野(物理・化学)を担当し、先導的試行でいろいろなことを試みました。「君たち、人間は道具を使う動物だろう。国語、数学、英語はTool subjectと言って道具教科なんだよ、理科では数学を使って問題を解くだろう。今度の単元修了テストは英語も使うよ」と言ってイギリスの中学生が使う理科問題集からそのままの問題をプリントしてテストに使ったことがありました。さすが、附属の生徒たち、何時とも変わらず、すらすらとこなしていました。この試行は理科の本質に迫れないので間もなく止めました。教育委員会の縛りが無い附属だからこそ出来たことです。
その後、私は附属から県教育委員会に転任し学校現場を指導する立場になりましたが、明日のことは分からない人生ですね。

 清里若梅寮での夏季学校、美術の先生の提案で「創造性を育てる岩石美術」と命名し川原の石を素材にして造形する行事を、職員会議で検討し実行しました。当時はまだ自然保護に対して今ほど議論されていない時代でした。
生徒たちは、川原の石をそれぞれに、熊、河童、郵便ポスト、五重の塔などと見立ててペイントで作品を仕上げました。優秀作品は金賞、銀賞、銅賞と表彰され、生徒たちも満足げでした。が後片付けせず、そのまま横浜に帰ったため、原色でペイントされた川原の石を見たハイカーたちが大騒ぎ、横浜国大附属中の不祥事と、週刊誌の記事で叩かれたこともました。

 附属のクラブ活動は野球部、バスケット部など活躍していました。私は陸上競技部を担当しました。水泳部はまだ無かったのです。水泳は小学校の頃からスイミングスクールに通っていた人が絶対的に優位です。附属中学入学時、すでに神奈川県小学校選手権を持っている人が何人もいました。生徒総会で水泳部設立の要望が強かったのですが、水泳部顧問は夏休み返上の状態に追い込まれますので顧問のなりてがない。私は附属小学校校庭直ぐ近くの官舎に入っていましたので、それではと陸上部と水泳部を引き受けました。
陸上部は中区大会でも出ると負けでしたが、水泳部は県大会で種目別優勝者、惜しくも銀、銅は何人もで、総合で3位入賞したこともありました。

 3年B組、学級担任で困ったことがありました。秋の教育実習生でのこと、ある朝、教生と一緒にホームルームの教室に入ると、黒板に「教生よ!大学に帰れ!」と、白墨で大きく文字が書いてあり、生徒たちは皆机に顔を伏せているのです。授業拒否でした。高校受験でそれぞれが自分のペースで勉強に取りかかっている時期です。要領よくポイント・ポイントを抑え不要分はカット、重点項目にじっくりと時間をかけていくベテラン教官とくらべ、教育実習生の未熟さに我慢ができなくなったのでしょう。
附属学校は教育実習生を受け入れる使命がある。教え方が下手でも、それを受け止める能力があると君たちは認定されて附属学校の入学を許されたのだ、このような行動は許されない。と説得し生徒たちも納得しました。

 国大附属中で、最初に出会った15期生の伊東通君、千葉景子さん、そのほか何人もの、顔・顔・顔・24期生までを送り出して昭和48年3月、離任式、壇上で思い出が走馬灯のように脳裏を掠め、また涙がこみ上げてきました。
ああ!懐かしきかな!国大附属横浜中!何時何時までも永遠であれ。