若松先生との対談

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附属への転任

先ず、赴任の経緯からお伺いしました。

中西 附属の前はどちらで教えていらしたんですか?

若松 横浜の原宿っていう交差点があって、その近くに大正中学っていう学校があって。そこで1年間お世話になっていて、1年が終わろうとする3月の中旬ぐらいでしたかね、野村先生っていう昔の校長先生、野村正七先生。野村先生はご存知ですよね?

中西 野村正七先生・・校長ですね?

若松 校長ですね。野村先生から直接電話がかかってきて、こっちへ来ないかって言われて。で、原宿ってちょっと田舎だったから、やっぱり街の真ん中へ行きたいっていう気持ちがあって、「よろしくお願いします」ということで。で、もう2年目から。出てくるとき来年の3年の担任が決まってたから出づらい雰囲気があったんですけど、校長に話をして。

中西 あの当時って名指しで「来いよ」って言われてきたっていう人が多いんですよね。

若松 昔は一本釣りでしたね。いまは教育委員会を通しての人事ですけど、昔は大体一本釣りですね。一本釣りってことは、どこかで知られていなければいけないんだよね。誰かが知ってる、とか。

中西 野村校長とは、どういうご関係だったんですか?

若松 野村先生は地理の先生だから、関係ないんだけど、大学の3年と4年で全部教育実習が横中なんですよ。で2年間行ってたこともあって、そのときに寺田先生がお辞めになられることが決まったん寺田先生も矢島先生も、実習で習ってたから、きっと、お二人のどちらかだったのか両方かはわかりませんけど、言ってくださったんじゃないですかね。あるいは僕以外に候補がいたけど断られたからっていうことかもしれないですけどね。人事のことはよくわからないんだけど。

若松 野村先生は、僕が行って一年でお辞めになられたんですよ。

中西 世界的に有名な方ですよね、なんていう地図でしたっけ、メルカトール…。

若松 そうですね、だから、地理というより地図学ですね。

岩崎 メルカトール図法ですか?

吉田 そう。それですごく有名な方なんだよ。光陵高校に伊藤理先生いたじゃないですか、あの人野村先生の教え子なんですよ。地理の先生。

中西 ああ、理先生。そうなんですか。

中西 附属中学の先生に入ってくるのって、昔は一本釣りが多かったんですけど、いまはどういう風に入ってくるんですか?

若松 まず、教育実習で来た人とか新卒は獲れないから、経験者で。教育委員会に、今度○○先生が附属から出るから、その出先をお願いして、その代わりに誰かをもらうんですけど、委員会によっては、「誰か推薦する人いますか?」って、聞く場合もあるしこっちから言う場合もあるんですよ。でも、その先生が出るタイミングになったときに、こっちが「この先生欲しい」って言っても来年の担任が決まってるから出してくれないんですよね。だから、タイミングとかいろいろあるんですよ。

中西 基本的には希望しないと来ないわけですね。

若松 それはそうですね。

中西 会社の人事とかだと、有無を言わさず「君はあそこに行け」とかいうのがありますが、そういうのはないんですか?

若松 やっぱり簡単には変えられないから、そういうことは無いと思いますね。

附属での授業

吉田 若松先生は数学の先生ということで、私が20期ですから、23期が最初に担任を持たれたということで。

若松 そうです。僕が中学にお世話になったとき昭和45年で、22期生が3年生だったんです。23期が2年生で、そこの副担任になって、人事の関係で、その次の年に、3年の担任になったんです。だから、23期生は3年生のときだけなんですね、担任なのは。 3年間担任を持ったのが…26期、30期、33期、36期…ですね。

吉田 私たちは寺田先生に数学を習ったんですが…。

若松 寺田先生と入れ替わりですね、私は。

吉田 最初は附属での授業はどうでしたか?

若松 附属での授業は…そうですね、3年生なんかは、授業をやってると、こっちもまだ若くて経験がなかったから難しい問答をやりあうと子供に負けそうな感じはしてましたね。知識の範囲では全然問題ないんですけど、そうじゃなくて、非常に、気持ちがね、黒板に書いてるときとか、気圧されそうでしたよ。

吉田 うちらなんかも、教科書以外の問題集を別に持っていて、友達同士で解き合うみたいな傾向が当時はあったんですけど、やっぱり、自力というか率先してやっていくという風潮はまだ…。

若松 それはまだ今もあるけれど、昔の子の方が、そういう意味の知的好奇心は強かったのかもしれませんね。いまの子の方が忙しい感じがするんですよ。昔の方があんまり忙しくなかったから、そういうものに時間をかけてとりくめた、みたいなのがあるんではと。いまはどの教科もレポートとかいろんなものがあって、結構忙しいみたいで。

吉田 やることが多すぎる、ってことですかね。

若松 そうそう、やることが多すぎるから、一つのものに打ち込めない。打ち込めないというか打ち込む時間がかけられない、というのが正しいのかもしれないけど。今だと、ポートフォリオとかあるじゃない。

岩崎 はい、ありましたね。

若松 みんな、各教科やってるから、大変なんだよね、いまね。

岩崎 今もまだ続いてるんですか?

若松 やってるよ。あれって分厚いから、あれをかばんに入れると鞄が切れそうなぐらいになっちゃうんだよね…。

行事の変遷

中西 附属中に36年間だそうですね。

若松 そうですね。僕が行ってから、少しづつ行事なんかも変わっていってね。昔は夏季学校ってやってたんですよ、夏休みに。

吉田 林間学校ですか?

若松 林間学校、そうですね、あれ僕らの頃は夏季学校って呼んでたんですよ。あれが数年続いたんだけど、途中からスキー教室に変わったんですよ。夏季学校・・・というか林間学校をやめた理由が、あれ雨が降ると困るんですよね、することがなくてね。

吉田 そうそう、キャンプファイヤーもできないしね。(笑)

若松 スキーだったら、雪が降ったってスキー出来るし、っていうことで変えたんだけど。変えたきっかけが、前にいた大正中学で、僕にスキーを教えてくれた人がいてね。で、大正中学は生徒を募集してスキーに行くんですよ。いまみたいに全員行くんじゃなくて。で、大正中学で募集したら、生徒が足りなかったんですね。募集人員までいかなかったんですよ。で、少ない人数でいくと単価が上がっちゃうから、その、飯田先生っておっしゃるんですけど、その先生が僕に電話をかけてきて、「附属の子を10人ぐらい工面してくれ」と。
で、そのときの副校長が髙木先生、いまの髙木校長のお父さんで、相談したら、いいだろうということで、山手の昇降口に張り紙を出したら、すぐに集まっちゃって。で、10人ぐらい連れて行ったことがあるんですよ。そこでそのあとスキーが好きな先生が転勤してきて、最初は希望者で行ってたんだけど、だんだん、林間学校で雨に当たってたことが多かったから、途中で切り替えたんだよ。

中西 いまでもスキー教室やってますね。

若松 それ以来ずっとですね。いっとき、一番多いとき2学年行ってたもんね。

加茂 うちらも2年でした。新潟ですよね。

若松 いまのところも長いよね。昔は転々としてたんですよ。志賀高原とかもあるし。でも毎年探すの大変だったから。

中西 林間学校は昔、若梅寮に行っていましたが、今でも行っているんですか?

若松 いまは行ってないですね。えーと・・あれは僕がいたころ行ってまして、2つに分けていってたんです、入りきれないから。前半組と後半組と。若梅寮にもずいぶんお世話になったけども。あれって結局は寮じゃないですか。

中西 ええ、大学のね。

若松 前は附属小の寮なんですよ。横小の保護者が作ったんです。で、維持が大変だから大学に移管したんです。で、あそこに体育館みたいなのあるでしょ、ちっちゃなね。で体育館はまだ横小のなんだけど、寝泊りする方は大学に移管しちゃって、いまは大学の財産なの。

中西 ご飯とか作る人が常駐していましたね。

若松 あれは夏だけですけどね。

加茂 修学旅行って、先生が来たときからずっと行くところは同じなんですか?

若松 修学旅行は、基本的には京都が中心だけど、奈良に泊まる年もあるし、大阪もあるし、広島のときもあるし、それは学年に任せて、基本的には京都ということで。 ただ、今年、今の1、2年から、飛行機に乗ってもいいことになったみたいで。横浜市教育委員会も、中学校も認める、とういうことで。経費的に見ると、九州の方に行った方が安いかもしれないね。いまは僕が辞めたあとなんだけど、3年はもう契約しちゃってるから間に合わないけど、1、2年はもしかしたら検討するかもしれないね。

中西 韓国とかグァムとかそっちの方が安くなるかもしれませんね。

吉田 そうかもしれませんね。

若松 ただ、外国の場合、何かあったときに処理が大変ですよね。何かアクシデントがあったときに。

吉田 やっぱり、リスクをちゃんと考えておかないといけませんね。

若松 やっぱり事故が心配ですし。

中西 何かそういうことありました?修学旅行で。

若松 いや、僕のときはなかったけど、その前にそういうことがあったらしくて。

中西 船から人が落ちたっていうことがありましたね。

若松 それがあったからで、僕が行ったときから、「船は禁止」になってまして。航行が短いところは別ですけどね。

吉田 3期生か何かのときにその事故があったらしいですよ。

中西 台風のときに千葉へ行ったらしいですね。フェリーで東京湾を通って。

吉田 帰りか何かだったと思いますけど。

若松 36年間教員を附属中でやらせてもらって、子供の死亡事故に一度も出会わなかったっていうのは幸せですね。大正(中学)時代も含めて一度もなかったから。

中西 犯罪とかもなかったですか。

若松 それもなかったですね、大きな犯罪は。

中西 それは良かったですね。

現在の教育と附属中

中西 リテラシーって授業がありますが、あれはいつ頃から始まったんですか?

若松 あれは、君ら(53期)の頃ぐらいからだっけ、1年生のとき。

岩崎 そうですね。

若松 総合学習で、やっぱりある程度のこと、ワープロが打てるとか、検索が出来るとか、そのぐらいのものがないと学習が進展しないだろうということで、自由研究をやる前に、授業で知っておこうということで。一応そのために発表の仕方、プレゼンの仕方、パソコンの操作の仕方、インターネットを使った身近な調査の仕方、そういうようなことを1年の前期のときに身につけて、2年からやって、でまた3年でやっておしまいなんだよね。

中西 普通の学校にもある授業なんですか?

若松 あれはうちの学校の創造的なものですよ。

中西 普通の学校には無い?

若松 総合的な学習の時間はやるんだけど、やり方は、別に教科書があるわけじゃないし、各学校の独自性に任されているわけです。

中西 昔はそういう授業はなかったですよね。

吉田 なかったですね。

若松 まぁ、『教科』じゃないですからね。リテラシーというのは、これから総合学習を効果的に進めるために、あるいは教科にも役立つしね、そのための準備として、基本的なことを身につけておきましょう、っていうことなんですよ。

中西 今は附属中の受験に面接はないんですか?

若松 ないですね。

中西 私のときは、国旗を見て国の名前と、顕微鏡を見て繊維の名前を言う問題がでました。

吉田 ありましたね、体育の実技もありました。

若松 僕らのときは外部の人はなかったんじゃない。出来なかったじゃない、数的に。いっとき入試の倍率がかなりあったじゃない。一時期倍率下がりましたけど、最近、学校の頑張りに加え相対評価から絶対評価に変わったこともあって、また上がってきてるんですよ。法人化になって予算面では北風が吹いているけど、それ以外の面ではうちの学校に関しては南風が吹いているんじゃないかな。新しいものが出ればすぐ手をあげてやってるし。研究発表会年2回っていうのはうちだけじゃないですか。今度6月にあって、また2月は、「忙しいから出来る人だけやろう」っていうふうにプロジェクトを組んでやってるみたいですよ。

中西 発表会があると必ず、本にまとめて出してますよね。

若松 あれは予算ゼロでやってるんですよ。6月は正規のだから予算組んでやってますけど、2月のプロジェクトは予算が無いから、赤字作っちゃいけないんですよ。あの本は原稿代もらってないんで、全然。本を出してもらって、その売り上げでやっていこうかなと。

中西 あー。なるほど。

若松 でもあれって、まだ誰もやってないから、結構売れるんですよ。みんながやり始めて、似たようなのを出したって誰も買わない。そのとき、タイムリーかどうかっていうのが問題なんでね。

中西 今年は「読解力とは何か」という本が3月に出ました。

若松 いま読解力っていうのがすごく問題になってて、国語だけじゃなくて数学とかいろんな教科でも読解力を育てようと。先日教科書の編集会議に行ったんですけど、読解力が話題になって。みんな読解力でキョトンとしてたから数学の読解力とはこういうもんなんです、って説明してきました。

あと附属に来て良いのは勉強についてだね。教員にとって。大学の先生との付き合いもあるから、こっちがその気になればいくらでもその機会が与えられるってことで。公立はなかなかそうもいかないじゃないですか。で、附属の子ってやっぱり授業を見る目って厳しいものがあるから、あの先生は出来るとか出来ないとかわかるんですよね。それって結構厳しいものがあるんで、だからそれに向かない先生は附属に来たら辛いと思いますよ。だから僕なんかは、別に自ら口に出しちゃいないけど、心の中で、「お前たちに日本一の先生に会えて良かったと思わせるような授業を常にやろう」とはいつも思ってましたね。また、教科書を書いていると、後ろに名前が載ってるじゃないですか、執筆者で。あれがあるってだけで全然違うんですよね。まぁ誰でも載るってもんでもないしね。
(注・附属中学で使用している数学の教科書に、若松先生が執筆者として名前を連ねている。)

附属の絆

若松やっぱり、附属中は信頼されてますよね。生徒だった人が、子供も附属中に入れたいと思ってくれることは、本当にうれしいことですね。親も信頼してくれているから、学校に対して協力的なんですよね。安心出来るところもあるでしょうし。附属に勤めさせてもらってよかったですよ。公立学校で実績を挙げてる人は、附属に来て、実績挙げたから来てるわけだから、もしかしたら自分と合う・合わないっていうのがあるかもしれない。僕は教師になって2年目から来たから、それが逆に附属に長く居る要因になったかもね。

芹田 若松先生が、附属で長い間やっていらして特に良かったなぁと思うことはなんですか?

若松 君たちも、附属を卒業して良かったと思ってくれてると思うんだけどね、それが沢山、みんなが思ってくれてる割合が高いと思うんだよね。「附属中学を出て良かった」って。それがやっぱり、一番嬉しいことですね、教育してて。自分のいた学校を「あんな学校卒業しなくて良かった」って思う人も世の中にはいるのかもしれないけど、そういう割合がもっとも少ない学校なんじゃないかと思うんです。それがずっと居てよかったなって思う喜びの一つですね。

中西 地元の小学校から附属中に行って一番驚いたのは、不良がいないんですよ。小学校だと、必ずクラスに1人ぐらいは問題児がいてね(笑)不登校とか・・・。でも、不良がいないんだよね。いじめっこもいないし、いじめられっこもいない。それがすごいなぁと。

若松 まぁ小さなトラブルはありますけどね。でも、1年の頃はともかく、3年になると直りますね。

吉田 昔は全員部活に入らなきゃ行けなかったんですよね。だから、縦もしっかりしてたんですよね。今は自由だけど。

若松 そうですね。でも、大体みんな入ってるよね、一番初めは。

岩崎 そうですね。

中西 生徒の活動といえば、表彰の方はいっぱいあるでしょう?

若松 子供たちは結構ね。清さん(本田先生)の尽力もあるんだけど、作文で日本一になったとか、そういうのが職員室の前の廊下にたくさん貼ってありますよ。そういうわけで、附属に来て辛かったとか、悲しいとかっていう、そういう思い出ってほとんど浮かんでこないんですよね。楽しかったこととか、そういうのは浮かんでくるんだけども。だから、そういうのが浮かんでこないっていうことは、幸せなのかな、と思うんですよね。

中西 そうですね。

若松 やっぱり、附属の子の情の厚さっていうのは、あちこちで感じるんですよ。この前の、岡野先生が亡くなったときの葬儀の世話をしてたのも、ほとんど卒業生なんですよ。

中西 そうなんですか。本当に附属の絆の深さを感じますね。

校舎の歴史

若松 弘明寺の校舎って、不思議な校舎でね。君たちも行ったことないところがあるでしょ?例えば地下とか行ったことある?

岩崎 地下ですか?それは、ないですね。

芹田 昔防空壕だったところとかありますよね。

若松 ああ。あるね。

中西 地下があるの?

若松 地下っていうか、うちの1階は高さが高いじゃない。だからその分地下があるんだよね。

芹田 非常階段の方に、地下への入り口があるとかって噂は僕らの頃に出ましたよ。

若松 あと、校舎の中に変電所があるんだよね。あれはもう、誰も知らないんだけど。

中西 なんの、ですか?

若松 弘明寺地区の。この一帯の電源は全部あそこで賄ってるんですよ。

一同 へぇー。

若松 6000V入ってるんですよ。外から。で、そこで分けて、養護学校とか、留学生会館とかに電気を回してるんです。昔工学部だったから、それぐらい電気量が必要だったんでしょうね。

中西 へぇー。じゃぁ今度エアコンをつけるって話もそのへんで使えたら…。

若松 まぁそうなんですけどね。でも、そこから校舎に回してる部分が少ないから、そこを変えないといけないみたいですね。

若松 附属の歴史も、立野時代と弘明寺に来てからだと、そろそろ同じぐらいになるのかな。こっちに来たのが33期が3年のときだから・・・まだ3年ほど立野の方が長いのか。あと数年すれば弘明寺の方が長くなるんだね。立野の古い校舎って知らないよね?知ってる?

加茂 5年生のときまでありました。

中西 立野の校舎は懐かしいですね。子供が附属小に行っていた時は、小学校に行くのに、昔の自分が通ってる気分でしたよ。あの坂もきついですね、高校まであの坂をかけのぼっていたんだもんなぁ、昔は。

吉田 当時はタイムレコーダーだったんですよね。

加茂 タイムカードだったんですか?

中西 そうそう。ぎりぎりになるとよく走っていました。

加茂 なんでなくなったんですか?

若松 なくなったのは、時代が変わったからで。続けようか辞めようかって話になって。あと、先生がやってないのに生徒だけやらせるのっておかしいんじゃないの、ってことでね。

若き花々の像

若松 若き花々の像ってあるでしょ?あの場所には、ほんとは「名教自然」って書いてあった自然石のすごいのがあったんですよ。ようは自然は全ての先生だ、自然から学びなさいっていうね。初代の校長が書いたんですけど。それは工学部のシンボルなんですよ。だから、工学部が引っ越すときに一緒に移動したんですよ。で、あの円庭の部分って、何もないと間が抜けちゃうじゃないですか。それで、子供から作品を募集してあの若き花々の像を作ったんです。

岩崎 生徒から募集したんですか?

若松 そうそう。そして業者に頼んで。だから、「名教自然」の石塔はいまも工学部に行けばありますよ。

終わりに

中西 最後に、附属生に、現役の附属生・卒業生に、若松先生からメッセージをお願いします。

若松 こんなに長く居させていただいて感謝しています。附属はみんなが仲良いし、これほどの絆ってものを糧にして、今後に活かしていってくれればいいなと思っています。

芹田 附中にいて、「附中でよかったな」と思うことは?

若松 やっぱり、附中が良かったのは周りの人間じゃないですか?保護者、子供、それから教員。だから、僕はついてると思いますね。いい人たちに恵まれて。だから逆にいうと、そういう人たちに恵まれたから、経営方針は簡単で、保護者、教員、生徒の全ての人にうちに来て良かったなと思わせる経営はどうしたらいいのかっていう、それだけのことですね。 だから、例えば同窓会がうちの学校にとって必要だなと思ったら、同窓会が困ったら手助けする。そうしないと、結局すべてのことが続いていかないからね。
教員だったら、この人がちょっといま大変そうかな、と思ったら助けてあげたりね。

中西 退官されたあとのご予定は?

若松 今年1年はのんびりして。来年から新しい仕事につく予定でいます。

中西 そうですか。本日はありがとうございました。これからも、又、新しいところでのご活躍期待しております。

一同 どうもありがとうございました。

左から吉田、中西会長、若松先生、岩崎、加茂、芹田